写 真 の 歴 史 ・ 箱 館 写 真 の 始 ま り



写真の箱館渡来

 嘉永六年(1853)7月14日、 アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー ( M. C. Perry ) は軍艦四隻で浦賀に来航し和親通商を求める国書を提出した。 これに対する回答を得るため翌七年(安政と改元)(1854)、再び来航し神奈川沖に入泊した。 要求する内容は遭難したアメリカ船舶の乗組員の保護、 薪水食料の補給並びに修理及び交易のため数港を開くことであった。

 これに対し幕府は交易を拒否し長崎一港のみ開港するとしたが、 ペリーは神奈川または浦賀、 さらに琉球、 松前の三港を求めた。 交渉の結果、 ペリーは琉球を断念し浦賀の代わりに下田を、 松前の代わりに箱館を開港することで合意し、 同年3月31日、 日米和親条約(神奈川条約)が調印された。 アメリカが道内の港を開くことを強く求めた背景には米国捕鯨船の活動範囲が関係していた。

 条約が締結されるとペリーは下田と箱館の視察を申し出、 幕府の許可を得る。 当時箱館は松前藩領のため幕府は藩主松前崇廣にその旨を通達した。 ペリー艦隊が調査のため箱館に向かうとの通達を幕府からうけた松前藩は箱館市中へ触書きを出した。 婦人や子供の外出を禁じ、 山へ避難させること。 牛、 酒、 呉服などを目にふれさせないこと。 海に面した戸や障子は目張りして、 のぞき見させないこと。 葬儀は夜間に行うことなど詳細なものであった。

 一方では山背泊(入船町)から町はずれの桝形(大手町)まで、 高さ約2メートルの塀を建てめぐらし市中が海上から見えないようにした。 神社や寺院は貴重品を隠し、 鐘も鳴らさず、 婦人、 子供は大野村などへ避難させた。 箱館市民恐怖の中、 マセドニアン、サザンプトン、 バンダリア号の三艦が入港。 数日遅れて提督ペリーと従軍カメラマンのブラウンが乗艦した旗艦ポーハタン、 ミシシッピー号の二艦が入港した。 6月3日抜錨して下田へ向かうまでの約二十日間に数十枚の写真を撮影したと考えられる。 実行寺という寺にブラウンのほかにドイツからアメリカに移住して間もない画家ハイネやホロンが滞在し、 スケッチをしたり写真をもとに絵を書いたりしていた。


現存する日本最古の写真

 翌、 安政二年(1855)津軽弘前の画家で国学者の平尾魯僊は箱館に渡り、 ペリーらの行動を絵とともに克明に記した 『洋夷茗話 乾』 に写真に関しての記述をしている。 それによるとブラウンの使用したカメラは、 約45センチ×60センチ、 銀板の大きさは約36センチ×45センチと大きく、 現在の半切判(36.5センチ×43.2センチ)に相当する。 今日残されているブラウン撮影の写真は英米サイズのキャビネ判(6インチ×4インチ)に近い大きさであり、 額装などの関係で贈答用は別にしたものであろうか。

 レンズは標準レンズのほかに望遠レンズも用いていたようである。 撮影済みの銀板はその写真を紙に描いたあとに再び銅板を使用するため鮫皮で画像を磨き消している。 それ故にブラウンが撮影した枚数の割に残されている写真は少ないのである。 現存する三枚の写真は、 主席応接役で家老の松前勘解由と従者、 副応接役の用人遠藤又左衛門と従者、 副使勘定奉行石塚官蔵と従者であり、 婦人と娘の女性三人も撮影されているが残っていない。

 ペリー艦隊の通訳ウィリアムスの日記 『ペリー日本遠征随行記』 によると5月24日の記述に 「遠藤と石塚は肖像写真をとってもらった。 彼らは彼自身と背後に槍をもち、 帽子をかぶり、 特殊な鎧を着た家来どもを従えている写真を見て非常に喜んだ。 写真術について今まで聞いたことのある者はこの地には誰もいなかった。 珍しさと驚嘆と喜びは、彼らの態度と問答の中に等しくあらわれていた。」 とあり、 遠藤と石塚の二人の撮影日はこれで判るが勘解由の撮影日はまだ判明していない。

 これら三枚の写真はそれぞれの子孫に伝えられ現在は松前写真は松前町郷土資料館、 遠藤写真は横浜美術館、 石塚写真は子孫の石塚茂之助氏が所蔵されている。

 松前勘解由の銀板は経時変化で退色し、 赤外線フィルムで撮影したが画像は再現できず画面右下部のブラウンの名を刻んだサインが写っているだけであった。 短辺121ミリ×長辺152ミリ×厚さ17ミリの立派な皮製ケースに納められ、 上から金メッキされたマット、 次に厚さ5ミリのガラス、 その下に銀板がある。 これらをコの字型のフレームが寸分の隙もなく四辺を囲んでいる。 銀板の下には一枚の紙片が底に貼りついたように入っていて、 それには撮影者ブラウンが記した筆記体の七行の文字が書いてある。

 E. Brown Jr.  イー・ブラウン・ジュニア
 Daguerreotype artist 銀板写真芸術家
 United states steam frigate Porhatam 合衆国蒸気艦ポーハタン号
 Flag ship of Commodore Perry ペリー提督の旗艦
 Hakotadi Island Jesso 蝦夷島箱館
 Japan 日本
 Jun 1 1854 1854年6月1日

 6月1日は日本の 「写真の日」 にあたるが、 この日はペリーから松前藩士三人へそれぞれの写真が贈られた日でもある。


松前勘解由と従者
銀板だが現在は画像が消失している
松前町郷土資料館蔵




遠藤又左衛門と従者
銀板
横浜美術館蔵




石塚官蔵と従者
銀板だが現在は画像が消失している
石塚茂之助氏蔵
市立函館博物館寄託



北海道の最初のアマチュア写真家

 松前崇廣(文政十二〜慶応二 1829〜1866)は、 松前藩第十三代藩主。 開明派の大名として有名である。 嘉永二年(1894)幕府により崇廣は北辺防衛のために築城を命じられる。 福山城(松前城とも呼ぶ)の工事も終わりに近づいた安政元年(1854)ペリー艦隊箱館回航により、 前述の銀板に写された松前勘解由、 遠藤又佐衛門、 石塚官蔵の三人を箱館へ派遣し、 ペリーに応接させた。 この時、 崇廣は密かに箱館に出て市民にまぎれてブラウンの写真撮影風景を見ていた可能性もある。

 晩年の元治二年(慶応と改元)(1865)には幕府の海陸軍総奉行として全軍を指揮し第二次長州征伐に向かっている。 「幕府の老中もしくは元老中の人で有能な人物となると、 まず板倉勝静朝臣、 小笠原長行朝臣、 松前崇廣朝臣の三氏に指を屈しなければならない」 (『京都守護職始末』) とあるように外様大名では異例の出世で老中までなった優れた人物であった。

 写真術を研究していた大名には崇廣の他に、 島津斉彬、 徳川斉昭、 徳川慶勝、 松平慶永、 黒田長溥や十五代将軍徳川慶喜などがおり、 研究者には箱館戦争に参加した大鳥圭介をはじめ、 川崎道民、 佐久間象山、 飯沼慾斉、 久世治作、 菊池忠、 市来四郎、 古川俊平、 堀江鍬次郎、 前田凌海、 中浜万次郎などがいた。 崇廣が佐賀藩の医師で蘭学者川崎道民について写真術を学んだのは文久二年(1862)前後と思われる。 崇廣の肖像写真は函館に二枚、 松前に二枚、 宮城県に一枚現存するが本人が撮影した明確な写真は今のところ見出せないでいる。

 崇廣の時代に発行された写真関係書にはペリーが来航した嘉永七年(1854)の 『遠西奇器述』 がある。 川本幸民の口述を門下生の田中綱紀が筆記したもので 「直写影鏡 ダゲウロテーピー」 として銀板写真法を解説している。 文久二年(1862)には同年末に長崎で開業した上野彦馬著 『舎密局必携』、 慶応三年(1867)には柳河春三著 『写真鏡図説』 が出版された。 共に湿板写真法の解説書である。 これらの著者が訳語に苦労したと思われる写真用語を現代の用語と比較すると次のようになる。


晩年の松前崇廣
湿板
市立函館図書館蔵

現代の用語遠西奇器述舎密局必携写真鏡図説
写真術直写影鏡撮形術又は撮影術写真術
カメラ直写影鏡箱撮影鏡器暗箱又は写真鏡の箱
ピントガラス玻璃板の一面粗磨せるもの無沢玻璃板砂磨の不透板
取枠(カットホルダー)格子箱直立箱木格抽斗
引きぶた押蓋落し蓋
暗室暗室暗室暗室
撮影影を写す模写又は撮影影を写す
光線・日光光線・日光日光光線
秒時秒時間セコンド
現像液用語としてなし用語としてなしあらわし薬
定着(液)定着用語としてなし洗い上げ(薬)
処理用語としてなし用語としてなし手術
ネガティブ用語としてなし消極像影陰画
ポジティブ用語としてなし積極像影陽画
風景真景地景真景
ガラス板用語としてなし玻璃板玻璃板
水洗用語としてなし洗滌洗い
画像像影・真影・影像像影画像
焼付・プリント用語としてなし積極撮影移写
レンズ用語としてなし玉鏡鏡珠
写す写す写す写す
印画紙用語としてなし積極紙紙又は鶏卵紙
ピント用語としてなし用語としてなしブランドピュント

箱館のロシア領事館と写真

 安政元年(1854)12月下田で日露和親条約が調印され、 第六条で領事の駐在について箱館か下田の内一港に置くとされた。 安政五年(1858)ロシアは領事館を箱館に開設することを決め、初代駐日ロシア領事ゴシケヴィッチ、 医師アルブレヒト一行が来航した。 一行の陣容はアメリカ、 イギリスなど他国に見られない充実したものでロシアの日本に対する力の入れ方がうかがわれる。 亀田川の河口近くに箱館奉行所の建てた家でアルブレヒトは医療を開始していたが、 この養生所ではすでに窓にガラスを使用していたといわれる。 板硝子は建築用のほかに湿板写真用にも使用される。

 前年調印された日米修好通商条約、 日露修好通商条約により神奈川、 長崎とともに自由貿易港として開港した安政六年(1859)には、 すでに“硝子板”の輸入記録がある。 ゴシケヴィッチはロシア軍艦からカメラを入手し趣味で楽しんでいたが、 写真技術は相当レベルの高いものであったことが想像される。 例えば彼に写真技術を伝授された木津幸吉は上京してまもなく在京の一流写真師と肩を並べるほどであった。

 木津幸吉や田本研造に写真を伝授した人としてゴシケヴィッチの他に医師ゼレンスキーがいる。 アルブレヒトと交代して着任したのがゼレンスキーである。 田本研造はゼレンスキーに足の手術を受けその後助手として手伝うかたわら写真術を学んだ。 ゴシケヴィッチは慶応元年(1865)帰国するまでの六年間滞在し、 養生所を開いて住民の治療を行い、 日本人医師に臨床講義を行って医学の向上に努め、 日本人子弟のためにロシア語学校を組織して教育、 日本初のハリストス正教会の建設、 日本人学生をロシアへ派遣させる提案をするなど多くの功績を残した。


北海道最初の写真師 木津幸吉

 木津幸吉(天保元年〜明治二十八年 1830〜1895) は天保元年(1830)1月15日善八の長男として越後新発田に生まれる。 足袋職人の木津は安政六年(1859)自由貿易港として開港した箱館に渡り、 まもなく仕立屋を開業した。 職人を使ってかなり繁盛した。 函館洋服仕立屋のはしりであり、 仕事柄、 訪問した領事館や外国人宅に出入りしているうちに写真に接し次第に関心をもったと思われる。 まもなく写真機材を入手した木津は写真に没頭しゴシケヴィッチの指導で技術を習得する。 他人まかせの仕立屋は次第に傾き慶応二年(1866)店を閉じてしまう。 同年新地新町に露天の写場を開いたともいわれる。 木津の開業年には元治元年(1864)説と慶応二年(1866)説の二つがある。 開業年は断定できないが慶応三年(1867)にはすでに写真師として営業していることが判っている。


木津幸吉
市立函館図書館蔵

 同四年(1868)4月新政府により箱館裁判所(行政機関)が設置されるが同月中に箱館府に改称され公家の清水谷公考が府知事となる。 同年10月榎本釜次郎(武揚)らの旧幕府脱走軍上陸、 25日清水谷は青森へ逃れる。 明治二年(1869)箱館戦争が終結すると清水谷は箱館本陣に戻るが間もなく上京する。 この時木津も写真機材を田本研造に譲り清水谷と共に東京へ転任したとされている。 しかし箱館戦争当時撮影された写真は田本研造かロシア領事館の関係者や外国軍艦の乗組員によるもので、 現在までのところ木津の撮影とされる写真は皆無である。 当時の民度、 写真に関する認識などからすると、 木津の顧客は一般庶民ではなく一部の豪商、上級役人、 在留外国人や船員、 遊女など限られた階層の人たちであり、 横浜で開業した写真師下岡蓮杖と同様に営業的には難しい面があったと思われる。

 ちなみに当時の東京の撮影料は 『風俗画報』(明治二十九年3月10日発行)によるとガラス写真(湿板写真)で二十五銭、 プリントで七十五銭であった。 同九年(1876)12月出版 『東京写真見立競』 の写真師の番付表を見ると百人近い写真師の中で著名な内田九一、 江崎礼二より大きく中央に 「年寄 下谷 木津剛吉(幸吉)」 と出ていて木津の写真技術の評判が高かったことがうかがわれる。 木津は同二十八年(1895)9月28日に東京有楽町の養子、 信吉の写真館で死去、 六十五歳であった。


北海道写真界の功労者 田本研造

 田本研造(天保二年〜大正元年 1831〜1912)は天保二年(1831)4月8日紀伊国南牟婁郡神川村(現三重県熊野市神川町)で林業と農業を営む田本茂兵衛の長男として生まれる。 医学を志し家業を弟に継がせ紀州支藩新宮の儒学者宇井の塾に入り、 次いで竹村につく。 ペリー来航の嘉永七年(1854)頃、 長崎に出て吉雄圭斉の門に入り医学と舎密(化学)を学ぶ。 吉雄は代々外科医の家柄で医学、 化学、 物理などを学び、 写真術を内田九一に伝授した人として知られる。 写真術は舎密(化学)の中に含まれており田本も勉強している。

 安政七年(万延と改元)(1860)長崎奉行から派遣通詞の三年ごとの交代で来館する一行、 松村喜四郎らと共に師吉雄の命により箱館に来る。 その後、 凍傷が原因で壊疽にかかり種々の治療をつくすがついに右足を膝頭から切断する。 これにより七年間学んできた医師の道を断念する。 死んでも死にきれぬほどの心境であったという。 手術を担当したのはロシアの医師ゼレンスキーといわれているので彼が滞在した文久三年(1863)から慶応二年(1866)の間のことである。


田本研造
市立函館図書館蔵

 田本に写真を勧めたのは横山松三郎であった。 勧めに応じ写真の道に進むことを決めた田本は長崎から持参した翻訳書などで研究し、 また横山、 木津両氏に就き写真を修め、 治療を受けた縁もありゼレンスキーやゴシケヴイッチ領事からも教えを受けたと推測される。 田本の名が知られるようになったのは幕府脱走軍の榎本釜次郎(武揚)が軍用として地形の撮影を依頼した時からといわれる。 慶応二年(1866)頃に写場を設け注文に応じて風景や人物の撮影を行うが器材が不完全なため鮮明さを欠く。 そこで田本は厚硝子の破片を数ヶ月かけて研磨し四枚の 「複鏡玉」 を作った。 これはほぼ完成の域に達した。 翌三年にはわが国最後の旧式築城福山城や松前藩士の写真を木津幸吉と撮っている。 福山城は明治八年(1875)三層楼、 大手門及び一部を除いて大部分が取り壊されたのでこの写真は貴重なものとなっている。 明治元年(1868)現在の元町東本願寺函館別院の近くで開業する。 露天写場であった。

 同元年(1868)旧幕府脱走軍が上陸、 12月15日蝦夷地を平定する。 この12月に榎本釜次郎(武揚)は田本に写真を撮ってもらう。 榎本武揚はその後も写真と縁があり同二十二年(1889)5月10日創設されたわが国最初の写真団体 「日本写真会」 の会長をつとめている。 この会は内外のアマチュア写真家、 写真師、 写真材料商などで結成され研究内容もレベルの高いものであった。

 同二年(1869)5月箱館戦争が終わり官軍側の戦死者百六十五人は招魂社(現函館護国神社)に祭られた。 後難を恐れ放置されていた脱走軍戦死者の遺骨は実行寺へ埋葬、 のち谷地頭へ改葬した。 その数七百九十六人であった。 同六年榎本釜次郎(武揚)など脱走軍の同志が建設委員を設け同八年5月同所に碧血碑を建立、 田本が撮影した。 この時、 碑の背面から撮影した写真は撮影用の足場が組まれ湿板写真撮影用具や人夫も写っていて田本の撮影装備を知ることが出来る唯一の写真である。


開拓使と田本研造らによる北海道開拓の記録写真

 開拓使は明治維新後徳川幕府直轄下にあった蝦夷地の開発を主な目的として明治二年(1869)に設置された行政機関である(明治十五年(1882)廃止される)。 同二年(1869)7月本庁を民部省内におき、 8月には太政官直属となり各省と同格の開拓使をおいた。 開拓使は蝦夷を北海道と改め十一国八十六郡に分ける。 札幌の仮本庁舎竣工で同四年5月札幌開拓使庁が本庁となる。 同五年札幌開拓使庁を開拓使札幌本庁と改め函館、 根室、 浦河、 宗谷、 樺太の五支庁をおく。

 「箱館」 が 「函館」 に改められたのは明治二年(1869)と言われているが明確な資料はない。 同四年5月函館出張開拓使庁と改称されたが函館市中はもとより他官省の文書では 「箱」 と 「函」 が混用されていた。 同九年公文上も 「函館」 が正字として確定する。

 開拓使は同五年(1872)から十年間の計画で開発事業を行った。 移民の導入と保護、 農場、 機械場、 罐詰、 醸造などの官営工場、 炭鉱、 鉄道、 屯田兵、 農学校など広範にわたる事業で政府への報告に文書とあわせて写真を用いた。 その最初の写真は同四年(1871)8月田本に撮影を依頼した札幌ならびにその近郊の写真であった。

 写真のもつ記録性に注目したのは第二代開拓長官東久世通禧であったと思われる。 同四年東久世は函館から札幌に移るが5月には早速写真を撮っている。

 その二ヶ月前には開拓使が田本に撮影を申し付ける。 同五年3月、 田本は仕上げた写真百五十八枚を函館庶務掛に納品する。 写真の内訳をみると札幌の本通、 御宮、 御役所、 本陣、 豊平川、 平岸村、 一ノ村、 篠路、 石狩、 小樽、 手宮港庚午艦碇泊など広範にわたっている。 田本は右足が不自由なので門弟の井田吉を助手に伴う。 開拓使は二人に一日三両で三十日分で九十両。 その他に写真材料代として百枚分七十五両。 旅費、 雑費などは別途支給している。 田本たちの日当三両はそのころの箱館府の給仕の一か月分の給料であった。 田本はこの仕事の後千五百円かけて採光用ガラス屋根のついた本格的写真館を建築した。 北海道最初の写真館である。


明治四十年大火消失後再建された田本写真館 これも大正十年の大火で消失
北海道写真史料保存会蔵

 同十年(1877)いわゆる西南戦争が始まり軍事輸送のため全国的に船舶が不足する。 その影響で函館港の汽船の出入りが減少し商業も振るわず不景気となり、 田本写真館も営業が悪化している。 田本に関する開拓使の文書から両者の関係は密接であったと考えられ、 写真市場では未成熟な函館にあって職業写真家として成り立つように配慮がされていたことも考えられる。


乾板の使用

 明治十六年(1883)5月19日隅田川で行われた海軍の水雷爆破の瞬間と端艇競争を写真師江崎礼二がスワン乾板を使用して撮影に成功し 「早取写真師」 として一躍有名になり全国に知れわたった。 田本も同年乾板の使用をはじめ、 翌年1月4日付新聞に 「早取写真広告」 を出している。 これまで子供などは動くため失敗もあり、 再度ご足労を願い写しなおしていたが早撮り写真はその心配がない。 同日の新聞に今までの湿板写真では二十秒から三十秒かかったものが乾板だと一秒で写ると出ている。

 田本は同四十一年(1908)函館に帰った門弟の木村研に経営を任せる。 引退後は元町七十二番地で悠々自適の生活を送り、 大正元年(1912)10月21日、 八十一歳の生涯を終える。 木村研が 「木村写真館」 としてスタートするのは同七年(1918)8月10日のことである。 田本は多くの貴重な写真を写し今日に伝えているが、 特に開拓使時代の記録写真は日本写真史上においても高く評価されている。 また数多くの優秀な子弟を育て写真界に多大な貢献をした。 田本研造の死は 「写真師の祖 逝く」 と新聞でも大きく報道された。


偉大な写真技術研究者 横山松三郎

 横山松三郎(天保九年〜明治十七年 1838〜1884) 三代目文六。 写真家、 洋画家。 天保九年10月10日父文六(二代目)の長男として択捉島で生まれる。 父は択捉島の漁場支配人であったが横山が幼年のときに死亡し家族は箱館に定住する。 十五歳の時、母の勧めで商家堺屋八右衛門に奉公に出る。 仕事が終わると江戸の土産にもらった葛飾北斎の 『北斎漫画』 を愛好し、 いつも朝まで臨写していた。

 絵に熱中するあまり奉公して二年目に肺疾となり三年間自宅で養生したあと店を開き繁盛する。 黒船騒動が落ち着き再び店を開くが病気が再発する。 親族の勧めで諸国の神社詣でに出る。 帰ってみると箱館は不況の上、 不漁も重なり店の貸付も回収できず店は傾いてしまった。


横山松三郎自写像
市立函館図書館蔵

 ロシアの軍艦で箱館に来た画工レーマンは上陸後風景を描いていたが多くは山間部に入り野宿することが多く画材の運搬人たちは耐えられずにやめてしまう。 困ったレーマンは後に絵の好きな横山に相談して協力を得る。 レーマンは絵を描く時、 目は描くものを見すえ筆先は一切見ないで描いた。 横山はレーマンのそばを離れず熟視し、 遠近法、 洋画法の基本を知り三年後に完成させた。 わが国洋画界の先駆である。

 レーマンとの経験から、 まず写真撮影してから絵を描くためにと写真術習得に意欲を燃やす。 当時の箱館では写真機材の舶来はまれなことで横山は写真薬品をはじめカメラ、 レンズも自製し、 苦労の末ついに撮影に成功した。

 幕府の軍艦健順丸が貿易船としてバタビヤ(現ジャカルタ)に向けて出航することを知った横山は写真術習得の絶好の機会と考え、 商法取扱手附として乗り込むことに成功した。 しかし文久二年(1862)箱館を出港した健順丸の航海は幕府の意向により品川で一時中止になり翌三年再び上海行きを命じられ同四年(元治と改元)(1864)3月上海に到着した。 横山は上海では目的を果たせなかったようで記録が残っていない。

 4月長崎に寄港するとあちこち写真のことを聞いてまわった。 長崎の写真師上野彦馬については健順丸に乗船中にすでに知っていたが会うことは出来なかった。 写真研究者の動静を調べたり外人の様子を探ったり、 又その斡旋を頼んだりしたが出港が迫っていて目的を果たせなかった。 品川に着くと役を辞し横浜の下岡蓮杖を訪れた。 湿板写真の製法、 撮影、 現像処理などは習得していたが印画紙(この頃は鶏卵紙)の製法と密着現像方法は未知であった。 横山は下岡からこのことを教わりたかったが初め入門を許されなかった。 しかし結局は、 フランスで発明された写真術をアメリカ経由で下岡蓮杖から、 ロシア式写真術をゴシケヴィッチから、 オランダ式を長崎で見聞調査し、 日本に写真が伝来した三方式を知りえたわけである。

 慶応四年(1868)江戸両国に、 ついで下谷池之端で写場を開く。 開業後下岡より石版術を習う。 明治三年(1870)下岡と日光山の撮影を計画、 横山が実行する。 撮影の許可を得る段階から苦労の連続で半年間におよぶ撮影も大変なものであった。 同四年(1871)蜷川式胤の依頼で旧江戸城を撮影し、 四切判に仕上げたあと画家の高橋由一が彩色を施し着色写真とした。 六十四枚からなる 『旧江戸城写真帖』 は東京国立博物館に所蔵されている。

 同五年(1872)やはり蜷川の関係で、 正倉院、 伊勢神宮、 京都御所、 奈良三月堂、 東大寺などを撮影する。 これらの写真はウィーン万国博覧会にも出品され 『澳國維府博覧会出品撮影』 アルバムとして残されている。 同九年(1876)陸軍士官学校の教官となり写真石版や墨写真などの諸技法を研究する。 同十年(1877)士官学校で軽気球を上げた時、 長官の許可を得て気球より撮影する。 わが国航空写真撮影の初めであった。 同十四年(1881)士官学校を辞し石版写真業を開くが全て門弟たちに任せ横山は隠居生活に入る。

 横山が研究し成功した写真印画法には、 金属板写真(明治元年)、 漆紙写真(明治三〜五年)、 光澤色写真(明治七年)、 楕円浮出写真、 ゴム印画、 クロミューム裏焼法(明治八年頃)、 墨写真(明治九年)、 電気版写真(明治十年頃)、 写真油絵(明治十三年) その他青写真法などがある。 幸いこれらの貴重な写真類は他の横山の資料と共に横山裕氏が所蔵されている。 横山の門からは写真のみならず石版、 洋画界へも多くの逸材が輩出した。 特筆すべきことはすでに写真師として営業している人たちが横山を慕って門人となっていることであり、 著名な中島待乳などはその一人で横山の人柄と写真技術の高さが窺われることである。


現存する道内最古の小林写真館

 小林写真館は明治三十五年(1902)、 小林健蔵(明治九年〜昭和二十九年 1876〜1954)が二十六歳の時に開業するが同四十年(1907)8月24日の大火で焼失、 正月の書き入れ時に間にあわせるべく同年末に再建された建物で、 二階にある写場(スタジオ)の採光は屋根と側面に張ったガラス(スラントと呼ばれる)から入る自然光であった。 この写場は昭和三十七年に廃業するまで改装しながら使われた。 小林健蔵は兵庫県出石の士族の次男として生まれ十三歳で神戸の名門、 市田写真館に入門する。 市田左右太(1843〜1906)も出石の出身で神戸福原の上野幸馬のもとで修業した。 幸馬は高名な長崎の上野彦馬の弟であり、 小林も上野彦馬の系統に入る。

 二代目の小林信男(明治四十三年〜平成八年 1910〜1996)は大正十三年(1924)12月に健蔵にこわれて来函、 養子となる。 信男は健蔵の兄、 與四郎の次男。 信男が来たころ、 小林写真館には健蔵以下十名がいた。この頃には市内に十五軒の写真館があり撮影料は大正から終戦まで大きな変動はなかったが、 小林、 田本、 池田の三軒は他館より五十銭高かったらしい。

 昭和十七年(1942)北海道写真師商業組合が設立され、 函館支部長に小林健蔵が選出され業界のために尽力し、 その後昭和二十九年(1954)に逝去した。 当時、市内では組合に加入したもの五十五名、 うち約半分は店を持たない出張専門の写真師であった。

 昭和三十七年(1962)小林写真館二代目信男は一般社会でいう停年の年齢に近くなったこともあり、 写真館を廃業した。 二代にわたって使用された機械などは大切に保存されており撮影された写真も多数残っている。 しかし残念なことに昭和二十九年(1954)洞爺丸台風により床下にあったガラス乾板はすべて水をかぶった。

 小林写真館では廃業までガラス乾板での撮影であった。 多くの機械、 写真などは主に北海道写真史料保存会などが寄贈を受け各所にて展示公開をしている。 建物は明治期の色に復元され九十余年を経た現在も当時の写真館を伝える貴重な文化遺産として観光客などに喜ばれている。 一説には国内で三番目に古い写真館とも言われる。



明治四十二年4月21日撮影の小林写真館
乾板
北海道写真史料保存会蔵






小林写真館写場
大正年間の撮影と思われスラントがわかる
北海道写真史料保存会蔵






小林写真館写場
改装されながら昭和三十七年廃業まで使われた
乾板
北海道写真史料保存会蔵
函館写真史年表
文政五年(1822)ニエプス ( Joseph Nicephore Niepce・仏 )、ヘリオグラフィ ( 世界最初の写真 ) 発明。
文政十二年(1829)松前崇廣、生まれる。
天保元年(1830)木津幸吉、越後新発田に生まれる(1月15日)。
天保二年(1831)田本研造、紀伊国南牟婁郡神川村に生まれる(4月8日)。
天保九年(1838)横山松三郎、択捉島に生まれる(10月10日)。
天保十年(1839)ダゲール(Louis Jacques Mande Daguerre・仏)、ダゲレオタイプ(銀板写真法)発表。
ジロウ(仏)より初めてのカメラ(ダゲレオタイプ用)が市販される。
嘉永元年(1848)銀板写真機(ダゲレオタイプ)オランダより長崎に渡来。
嘉永四年(1851)アーチャー(Frederick Scott Archer・英)、 コロジオン湿板法の発明を雑誌に発表。
安政元年(1854)日米和親条約締結し下田と箱館の二港を開く(3月3日)。
ペリー艦隊箱館に入港する(5月)。
艦隊の写真師ブラウン(Eliphalet Brown Jr.)、松前勘解由と家来、遠藤又佐衛門と家来、石塚官蔵と家来などを撮影(現存する日本最古の銀板写真)。
ペリーより松前勘解由、遠藤又佐衛門、石塚官蔵のそれぞれに写真が贈られる。 この日6月1日が昭和二十六年に「写真の日」と決まる。
川本幸民訳述、田中綱紀筆記の『遠西奇器述』を著す。
日露和親条約調印され、箱館、下田のどちらかに領事を置くとされる。
田本研造、医師を志し長崎に出て吉雄圭斉に入門。
安政五年(1858)ロシア領事ゴシケヴィッチ一行が箱館に着任。
安政六年(1859)木津幸吉、箱館に渡る。
万延元年(1860)田本研造、師吉雄の命により通詞、松村喜四郎とともに長崎より箱館に渡る。
文久二年(1862)道内最古の湿板写真「松前藩士の集合写真」撮影(松前崇廣の撮影と推測される)。
上野彦馬、長崎に写場開く。
下岡蓮杖、横浜に写場開く。
上野彦馬、化学書『舎密局必携』を著す。
松前崇廣、川崎道民より写真術を学ぶ。
元治元年(1864)横山松三郎、長崎の写真術を調査する。次いで下岡蓮杖を訪れ写真術を伝授される。
木津幸吉、写真場を開業する(慶応二年説もある)。
慶応二年(1866)松前崇廣、逝去。
慶応三年(1867)木津幸吉、田本研造の二人は松前に行き福山城(松前城)などを撮影する。
柳河春三『写真鏡図説』を著す。
明治元年(1868)横山松三郎、江戸で開業。
榎本釜次郎(武揚)率いる旧幕府脱走軍上陸する(10月)
木津幸吉、上京する(10月25日)。
田本研造、元町に露天写場を開業する。
田本研造、榎本釜次郎(武揚)を撮影する(12月)。
横山松三郎、金属板写真を行う。
明治二年(1869)箱館戦争が終結(5月)。蝦夷を北海道と改め、11国86郡に分ける(8月15日)。
この年、「箱館」を「函館」に改めたという。
明治三年(1870)横山松三郎、日光山を撮影する。
横山松三郎、漆紙写真を行う。
田本研造、東久世通禧に写真術を伝授する。
明治四年(1871)マドックス(Richard Leach Maddox・英)、臭化銀ゼラチン乾板写真を発明する。
田本研造、開拓使の依頼により札幌近郊を撮影する(8月)。
横山松三郎、旧江戸城を撮影する。
明治五年(1872)田本研造、採光用ガラス屋根のついた本格的写真館を建てる。
明治七年(1874)横山松三郎、光澤色写真を行う。
明治八年(1875)横山松三郎、楕円浮出写真を行う。
4月18日の大火により田本研造の写場類焼する。
明治九年(1876)横山松三郎、陸軍士官学校の教官となる。
横山松三郎、墨写真を行う。
田本研造、百坪以上の写場を建てる。
明治十年(1877)横山松三郎、軽気球より撮影し成功する。
横山松三郎、電気版写真を行う。
明治十一年(1878)11月の出火により田本研造の写場類焼する。
明治十二年(1879)12月堀江町の出火により田本研造の写場類焼する。
明治十三年(1880)横山松三郎、写真油絵を行う。
田本研造、元の会所町に戻り仮建築で営業。
明治十四年(1881)横山松三郎、士官学校を辞し石版写真業を開く。
田本研造、補筆(写真修整)を始める。
明治十五年(1882)開拓使が廃止される。
明治十六年(1883)江崎礼二、隅田川の水雷爆発と端艇競争を乾板で早撮りする(5月19日)。
明治十七年(1884)田本研造、早取写真(乾板使用)の広告を新聞に出す(1月4日)。
横山松三郎逝去、47歳(10月15日)。
田本研造、写場本建築の落成(12月)。
明治十九年(1886)この頃から湿板の需要衰える。
明治二十二年(1889)わが国最初の写真団体「日本写真会」(会長榎本武揚)が設立される(5月15日)。
明治二十八年(1895)木津幸吉逝去、65歳(9月28日)。
明治三十三年(1900)田本研造、写真製版を始める。
明治三十五年(1902)田本研造、数百人撮影できる大集合写場を増築(10月)。
小林健蔵(神戸市田写真館出身)、大町にて開業。
明治四十年(1907)田本研造、小林健蔵の写真館大火で類焼する(8月25日)。
同年、再び建築する(小林写真館は現存する道内最古の写真館である)。
明治四十一年(1908)田本研造、写真館の経営を門弟木村研に任せる。
明治四十二年(1909)田本研造、隠退する(77歳)。
大正元年(1912)田本研造逝去、81歳(10月21日)。
大正七年(1918)田本写真館から木村写真館となる。
昭和三十九年(1964)北海道写真発祥之地の碑が建立される(9月19日)。

目次 I 表紙に戻る